日光市と合併する前の旧今市市の自慢の一つが「二宮尊徳終焉の地」でした。
二宮尊徳は幕末の偉人で、農村の発展や飢饉の救済など人の命を救う仕事に生涯をかけ、日本各地で尊敬を集めています。
晩年は日光神領、つまり旧日光市や旧今市市周辺地区の90箇所近い村落の復興に努め、今市で病気にかかって亡くなりました。
二宮尊徳の略歴
二宮尊徳は現在の神奈川県小田原市出身。それなりに豊かだった農家に生まれたものの、幼少期に河川の決壊によって田畑を失い貧しくなります。
それに加えて、父親が病気になったため、長男として幼い頃から草鞋を作って一家の生計を支えていました。
14歳のころ親戚の家に預けられ、畑仕事に勤しみます。そして、夜に勉学に励んでいたところ、明かりに使う油の無駄遣いだと叱られたため、自ら菜の花を育てて菜種油を作り、それを明かりの燃料としていました。
すでに後年の片鱗が見えます。
20歳になると実家に戻り、わずか数年で復興させました。
さらに、母親の実家を資金援助したり、二宮家の本家再興をするなど頭角を表して、それが小田原藩の家老・服部十郎兵衛の目にとまって服部家の財政建て直しを成し遂げました。
30歳を過ぎ、尊徳は小田原藩主の分家がある下野国芳賀郡桜町、現在の真岡市の農村復興を依頼されます。
真岡では農機具のレンタルや無利子の貸し付け、入植の斡旋などを行って15年かけて村を復興。その成果により、天保の大飢饉でも桜町では死者が出ませんでした。
その天保の大飢饉では、烏山の救済を行っています。
50歳になってから小田原に呼び戻され、小田原周辺から伊豆にかけてまでの飢饉を救済。
さらに、茨城県下館の石川家の経営を改善するなどの活躍を見せます。
尊徳57歳の折、水野忠邦に引き立てられて幕臣となります。
当時日光神領にある89の村落は、天保の大飢饉によって人口が減り、耕す人が以内農地は荒廃していました。
尊徳は、幕府によって日光神領の荒れた農村の復興を命じられます。
尊徳は灌漑設備がなく畑ばかりだった日光神領の村々に大谷川の水を引く用水路を引き、畑から田んぼへの転換を奨励しました。
ただインフラを整備するだけではなく、経済支援も行っています。
このような復興支援事業を当時は「仕法」と呼びました。
しかし、日光神領の仕法が始まってまもなく尊徳は病没します。ただ、尊徳の志は子や弟子が引き継ぎ、日光、今市の村々は豊かな農村へと生まれ変わったのです。
二宮尊徳が遺した報徳思想
二宮尊徳は幼い頃から仏教、儒教、神道の思想を学び、そこに農業の実践から得た経験を合わせて、大極に積極的に向かって生きる「報徳思想」を確立しました。
大極とは太極とは異なり、むしろ道家思想の「道」。天地を統べる目に見えない法則のような意味合いを持つ言葉です。
その思想は、至誠、勤労、分度、推譲の4つで表されます。
至誠 | 誠をもって大極に従う心 |
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勤労 | 至誠の心で大極に逆らわない生き方に努める |
分度 | 無理をして倹約するのではなく、至誠の心で勤労することで自ずから必要な物・財産だけを使い自らの分に応じた生活をする |
推譲 | 分度の結果余ったものが出たら、それを他者に譲ること |
最期の推譲は仏教の布施に近い思想だと思われますが、あとの3つは道家、特に老子の思想に通ずるものを感じます。おそらくは儒教だけでなく道家思想も学んでいたのでしょう。
これを単なるスローガンにせず、自ら実践して飢饉や農村荒廃などを救ったところに尊徳の偉大さがあります。
報徳二宮神社
今回の出発点は東武日光線下今市駅です。
いや実際には自宅が出発点ですけど、記事的にここを起点とします。
下今市駅を出たら右方向へ。
坂を登っていきます。
坂の上にある墓地は玄樹院大乗寺という室町時代ごろに建てられたけっこう由緒があるお寺です。
入り口にはおそらく明治の廃仏毀釈運動によって破壊されたのであろう地蔵菩薩像があります。
駅から続く道のつきあたりがもう報徳二宮神社です。
左に曲がって玉垣にそって歩くと駐車場の入り口があります。
二宮神社の駐車場というと、中学生のころたまたま通ったときに、この近くに住む同級生のF君が他校の生徒をシメていたのを思い出します。中学生男子の中にはサルのような縄張り意識をもつやつがいるんですよね。
境内内に立つ鳥居と、その両脇に設えられた木像。
左の像は投げ銭をして入ると願いがかなうそうです。
でもこれ平成29年に奉納されたものなんですよね。
お札も投げてもいいのよみたいなことを書いてあったり、わずか3年前に奉納されたものなのに「願いが叶うとされている」などと謎設定を付け足してみたりと、商売っ気出しすぎではないかと思います。
境内の手水舎。
いまはどこの神社も感染症予防のために柄杓を置いていません。
でも、ここはそのかわりに花やボールなどを浮かべています。
手水舎の屋根に風鈴を吊るしてあったりと、こういう参拝客を楽しませる部分ではセンスあるのに…
旧今市時代の斉藤昭男市長による報徳思想を称える石碑。
拝殿の前の狛犬さんです。
こちらは二宮金次郎像。
本来勤勉を称えるための像だったはずなのに、近年では「歩きながら本を読むのは危ない」などといういちゃもんを付けられて、全国の学校から姿を消していっています。
これと歩きスマホを混同するのは頭が悪すぎると思うんですが。
二宮神社の拝殿。
拝殿にかけられた額。
横に尊徳の教えがかけられています。「積小為大」というほうが一般的でしょう。
西川きよし師匠が国会議員時代に言っていた「小さいことからこつこつと」ということです。
二宮尊徳を神として祀る二宮神社は、他に生地小田原、荒廃から救われた真岡などにもあります。
ただ、他の二宮神社と異なるのは、ここには二宮尊徳の墓があるということです。
二宮神社の本殿。簡素な建築が二宮尊徳にふさわしい。
奥には二宮尊徳像があります。
少年時代の二宮金次郎像は見たことがあっても、晩年の尊徳の像を見たことがある人はあまりいないでしょうね。
こちらが二宮尊徳のお墓です。
昭和32年に指定された栃木県の史跡でもあります。
ここに「今市の如来寺で葬儀が行われ、現在の二宮神社境内内に埋葬された。」と書いてあります。二宮神社の公式サイトには、如来寺に埋葬されたともあるので、もともとは如来寺の敷地の一部だったのかもしれません。
墓の横に立つ二宮尊徳の道歌。
ちちははも
その父母も
わが身なり
我を愛せよ
われを敬せよ
両親もおじいちゃんおばあちゃんも自分の体のようなものだから、自分を愛し敬うように親やその親も愛し敬いなさいということですね。
こちらの札には尊徳の遺言が書かれていました。
「我が死応に近きあらん、我を葬るに分を越ゆること勿れ、墓を建つること勿れ、碑を建つること勿れ、只々土を盛り上げてその傍に松か杉を一本植え置けばそれにて可なり、必ず我が言に違ふこと勿れ」
尊徳は自らの報徳思想にある「分度」によって、墓なんて建てちゃダメだよと言い遺して亡くなりました。
なのに、尊徳の奥さんの意向もあってお墓を建ててしまった…ダメじゃん!
ましてや神様にまで祭り上げて神社まで建てちゃった…ダメじゃん!!
挙句の果てに奉納された像を利用して商売しちゃうって、そこには報徳思想はあるのかと思いますね。
二宮神社会館は昔は卓球場でした。
こちらが大鳥居。
高校生のとき、禁止されていたバイク通学をしていた友達のS君はこの鳥居のかげにバイクを隠して登校していました。