正一位稲荷神社は、東武日光駅から徒歩10分ほど。
二社一寺方面へ向かう日光街道の北側を並走する道沿いにあります。
正一位稲荷神社の由来と御祭神
境内にある由緒書き。
これによれば、この稲荷神社は鎌倉時代の健保6年=1218年に京都御所鎮護の稲荷神を勧請して「御所稲荷」と称していました。
もともとは、女峰山に源流がある大谷川の支流・稲荷川の方に神社があった。というより、稲荷神社が勧請されたことによりその川が稲荷川と名付けられ、その町が稲荷町と名付けられたようです。
鎌倉時代に「町」というのはあったんでしょうか?
ところが寛文2年=1662年、稲荷川と大谷川上流に洪水が起こり、流域は広い範囲で土砂災害に巻き込まれてしまいます。
そのため、現在の場所に町ごと引っ越してきたとのこと。
寛文2年の洪水では稲荷川、大谷川が決壊し、多くの被災者を出しました。
大谷川はその後もたびたび洪水を起こしていますが、寛文2年の洪水ほど大きな災害はありませんでした。
稲荷川・大谷川ではそうした経験から厳重な治水工事が行われています。
主祭神は稲荷神=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。素戔嗚命のお子様だったり、イザナギ・イザナミご夫妻のお子様だったり、女神様だったりおっさんだったりします。
穀物の神様で、五穀豊穣を祈る日本らしい神様だと言えます。
他に、八坂神と大杉神が合祀されていると記されています。
八坂神はおそらく京都の八坂神社の御祭神・素戔嗚命。
大杉神はよくわかりません。茨城県に大杉神社という神社があり、そちらから神様を勧請したのであれば大物主命ということになります。
正一位稲荷神社の境内の様子
開けた境内に佇む社殿。
神使のキツネさんたちにマスクがかけられています。
キツネさんは稲荷神のお使いで、稲荷神はキツネさんではありません。
こちらの賽銭箱は縁側と一体化した珍しいスタイルでした。
こちらの額には正一位稲荷大神となっています。
正一位は京都の伏見稲荷が朱雀天皇より賜った神階です。神社の位では最高位となります。
その後、後鳥羽天皇が伏見稲荷の分社も正一位を名乗って構わないと勅許を出されたことで伏見の本社以外の稲荷神社も正一位を表記することになりました。
拝殿後ろの扉が開け放たれ、本殿を直接拝することができます。
拝殿横には祖霊社。ご先祖を祀る社です。
東屋があって休むことができます。
東屋の横に置かれた巨岩。
西行戻石だそうです。
西行法師が日光を訪れた折、この石の上に子供がおり、西行がどこへ行くのかと尋ねると「冬萌きて夏枯草を刈りに行く」と答えたとか。
こんな子供が見事な句を詠むのだから、大人はもっとやばくね?となって西行はこの石の前で男体山を遥拝して帰ってしまったそうです。
この子供は神様の化身で、西行を試すために現れたという伝承もあるようですね。
ちなみに同様のネタとして松島の西行戻り松、秩父の西行戻り橋、山梨県の西行峠などがあります。
内容は全て同じで、西行が子供を試したつもりで同じ句を返されてそこから引き換えしたというもの。
引き返したポイントが松だったり橋だったり峠だったりするだけです。
この神社では西行が訪れたのは事実扱いとなっているようです。
ちなみに西行は鎌倉時代の人、俳句が生まれたのは江戸時代です。
西行は確かに奥州藤原氏を訪ねていますが、わざわざ日光に立ち寄ったりはしなかったでしょうね。
西行戻石の向かい側には庚申塔などの石碑が並んでいます。
この左側の石碑は「馬供養」と読めます。
こちらは庚申塔です。
石碑群の前に立てられた札は文字がかすれて読めません。
部分的に猿田彦、金剛、ヴィシュヌなどの部分が残っています。
守庚申は中国の道教のうち、外丹法に伝わる修行法です。
道教には、人体には上中下三種類の尸虫と呼ばれる虫が住んでおり、庚申の日の夜にその人の悪事を天帝に告げ口に行くという信仰がありました。
そこで、庚申の日は眠らずにいると、朝には三尸虫が死に、寿命が記された天界の司命簿から死ぬさだめが消えて不老長生を得られるというのが外丹法での修行となります。
道教は不老長生を得て仙人になることが目的の宗教です。その修行法には様々な方法があり、これは比較的古い時代に行われていたものです。
古代日本には道教思想の一部が伝わりました。平安時代には、道士でもない貴族たちが庚申の夜に宴会を開いて遊び呆けたとか。
この風習が庶民にも伝わり、三尸虫を抑える神様として青面金剛が創作されました。
南方熊楠は青面金剛はヒンドゥー教の神・ヴィシュヌが原型でないかと指摘しています。
猿田彦は、庚申の申=猿からダジャレ的に結び付けられたものです。
本来道士の修行法で一般人はやる必要がない守庚申を真に受けて行うのは時間の無駄でしたね。
正一位稲荷神社の情報
正一位稲荷神社
日光市稲荷町1-379
東武日光駅から徒歩10分