稲荷愛宕山神社は、並木大橋を渡って鬼怒川方面に伸びる国道352号線沿い、ベイシア電器などが入っている今市スーパーモールとすき家の間にある神社です。
こんな感じで切り取るとアフロの鬼が口を開いているように見えます。
入り口の石碑には愛宕神社、山神社、稲荷神社それぞれの名称が彫られています。
ただ、ネットで調べると稲荷愛宕山神社という表記が多く見られたため、ここでは便宜的に稲荷愛宕山神社と呼ばせていただこうと思います。
稲荷愛宕山神社の由来と御祭神
この神社は、まず江戸時代初期の貞享4年=1687年にまず愛宕神社が勧請され、元禄3年=1690年に稲荷神社と山神社がそれぞれ勧請されたとのこと。
御祭神は、愛宕神社が火産霊神。
京都の愛宕神社は御祭神がイザナギノミコト、新橋の愛宕神社は御祭神が火産霊神。
新橋の系統の愛宕神社が勧請されたということなのでしょう。
火産霊神(ほむすびのかみ)は別名加具土命(かぐつちのみこと)です。ご神名の通り火の神様。イザナギ・イザナミご夫妻の子で、生まれたときにその火でイザナミノミコトを焼き殺してしまったため、イザナギノミコトに斬り殺されてしまいました。
火の神様をお祀りするのは、火を司る力で火災などを抑えていただくという意味があります。
稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。イザナギ・イザナミの子だったり、スサノオノミコトの子だったりといろいろ設定があります。穀物、農業の神様で、江戸時代ごろに商業の神様という属性が付け加えられました。人間の都合で能力を付け加えられたりするのは神様にとって迷惑なことでしょう。
山神社の御祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)。大山祇命という表記もあります。こちらの神様は、イザナギ・イザナミの子だったり、加具土命が斬り殺されたときに生まれた神様だったりという設定があります。
稲荷愛宕山神社の境内の様子
鳥居にかけられた額。
ここには愛宕大権現、稲荷大明神、山神社と彫られています。
まず権現号は、本地垂迹によって仏菩薩が日本の神様の姿をとった神様につけられる神号です。
本地垂迹というのは、仏教勢力が考えた日本の神々は仏菩薩が日本に顕現したときの方便だとするいささか失礼な設定です。
愛宕権現は地蔵菩薩が日本でイザナギノミコトの姿をとった神様のこと。ただ、この額に愛宕権現と彫られているのは当時そう呼ばれていたからで、御祭神に生まれる矛盾は考慮されていないでしょう。
明神号も神仏習合の中で作られた神号です。
鳥居から伸びる杉の参道。ちょっとした杉並木です。
参道の途中に庚申塔がありました。
古いものかと思いきや、昭和55年に奉納されたものでした。
農村とはいえ昭和末期にまで庚申講のようなことが行われていたのは驚きです。
どうも農村部では庚申信仰の本来の意味がまったく失われて、庚申講が豊作を祈る祈願として行われていたようです。
境内をまたぐ水路に架けられた橋。
この水路はもともとは用水路だったはず。
橋の先にあった石碑。
かすれて読めない文字をなんとか読み取ると「善女龍王」「八大龍王」と彫られているようです。
まず八大龍王は『法華経』に登場する仏教の守護神。もともと蛇神だったのが中国で龍神となって日本に伝わりました。
善女龍王は、八大龍王のうち沙掲羅龍王の娘。
どちらも雨乞いの際に召喚される神様だということで、農村で雨の神様をお祀りするのは当然かと思います。
参道の先に拝殿が見えます。
その手前にある石碑には「三社修覆」云々とあり、この神社に祀られる三柱の神様の社が修復された記念碑のようなものだと思われます。
いかつい阿形とのんびりしたやさしい顔つきの吽形の狛犬さん。
拝殿は閉じられています。
拝殿の前に賽銭箱のかわりらしきブリキの箱が置いてあって1円玉が何枚か入れられていました。
拝殿の裏の本殿。これが修復された三社でしょう。
榊と紙垂がきれいなところを見ると、それなりに神職さんが管理しているようです。
本殿の奥にあった祠。
蓮の台があるので仏像です。
ふと上を見ると大日如来尊祠となっていました。
日光方面だと天台宗の輪王寺の影響からか大日如来をよく見かけます。今市には真言宗のお寺もあるのでそちらの系統という可能性も否定できません。
反対側には石祠もありました。
稲荷愛宕山神社の情報
稲荷愛宕山神社(芹沼愛宕神社)
日光市芹沼1473
今市方面から並木大橋を渡り国道352号線を鬼怒川方面へ、ベイシア電器とすき家の間